B's-LOG様(10年10月20日 発売号)「深夜の個人授業」
――その夜、いつものように『エピローグ・バー』にやってきた。
「いらっしゃいませ……おや、JJ」
扉を開くと、早速店のマスターが声をかけてくる。
「遅くに悪いな」
「ふふ、いつものことじゃないですか」
……そう言われれば、マスターのところに来るのは大抵遅い時間だ。
おそらくあまり人の多い時間帯に店に来ても、いわゆる裏の話ができないことが理由だった。
藤堂庄一郎……『エピローグ・バー』のマスターにして、情報屋、仲介屋を兼ね、
時には武器の調達もするという、筋金入りの裏の人間……
一部の人間からは、その如才なさから『教授』とも呼ばれている。
一見温厚なバーテンでしかなく、裏の顔を知る者は一握りなのだが、
俺は先日、幸か不幸かその事実を知った。
マスターとはそれ以前からの付き合いだっただけに衝撃は大きかったが、
それでも店を訪れずにはいられないのは、やはりマスターの作る酒が美味いせいだろうか……
ともあれ、俺はいつも通りカウンターの端の椅子に腰を下ろす。
「ゴッドファーザーを」
「……承りました」
マスターは氷の入ったオールド・ファッションド・グラスに、
ウイスキーとアマレットリキュールを静かに注ぐ。
その間、店の中などを見回してみる。深夜を回っているが、客は俺以外にも見受けられた。
皆、テーブル席の方でそれぞれ酒を楽しんでいるようだ。
……更に耳をそばだてると、マスターがグラスの中身をステアする音が聞こえてきた。
それは決して耳に障るような音ではなく、むしろ真夏に触れる氷のような涼しさを思わせる音。
……マスターの作る酒への期待が無意識的に加味され、そのように聞こえたのかもしれない。
「……どうぞ」
「ああ」
気の利いた返事もできず、グラスを受け取る。
中身は褐色透明の液体で、持ち上げると丁度よい高さで店の照明に映え、
一層上品さが増した気がする。
口に含むとウイスキーの重厚な味わいの中にアマレットの甘さと芳しさが程よく溶け、
確かな飲みごたえを感じさせる一方、柔らかな口当たりが優しい余韻を残した。
「美味いな」
ぽつ、とこれまた月並みな感想。
「ありがとうございます」
だが、そんな感想程度にもマスターは律儀に礼を返してくる。
人懐っこい笑顔が、穏やかな空気のバーを一層柔らかなものにした。
「……ところでマスター。今、割のいい仕事はないか?」
唐突に、不躾なことを問う。
手持ちの金がそろそろ尽きそうで、
梓と二人分の生活を維持することがやや困難になっていたのが質問の背景だった。
本来こういう話は閉店後が原則だが、客は少ないし、今なら誰かに聞かれる心配もないだろう。
「いくつかありますよ。小さい仕事なら3つほど」
小さい仕事でもあるにこしたことはない。
だが、ギャラが格安の場合が多い。
仕事の数を増やすと目立つし、危険も増える。
大きい仕事はその危険が少ない代わりにリスクが高く、敬遠する奴も多い。
「大きい案件はないか?あまり目立ちたくない。」
マスターは耳をピクリとさせ、息を飲み込むと、口元がニヤリと笑った。
「ないことはありません。……が、『条件』があります。」
「条件……」
依頼するにあたっての条件……銃の腕とか、殺した人の数、与する組織の有無等だろうか……
耳打ちのゼスチャーをするマスターの口許に、顔を近づける――
マスターの息が耳をくすぐった。
「(仕事の内容は、ここでは話せません。近くのホテルでいかがでしょうか?)」
「(閉店後、ここでは駄目なのか?)」
「(それもいいのですが……、ね。)」
マスターが俺の首筋に手を伸ばし、指先が鎖骨の辺りに触れた。
そのままゆっくりとした動作で、撫でられる。
ぞくり、とした感覚が背中を伝い、身体が一瞬硬直する。
「な――」
思わずカウンターから体を引いた。
うっかり背後に倒れそうになったのを、ギリギリで取り繕う。
そんな俺を、マスターはいつもの笑みを浮かべたまま、見つめていた。
その瞳には妖しい色合いを、含んでいた。
「ふふっ、…………冗談ですよ?」
「アンタはいつまで経っても……」
何を考えているんだ、と喉まで出かかったところで、やめる。
マスターは、この危険極まる湾岸地域でも一目置かれる人物だ。
この男の機嫌を損ね、俺の仕事が立ち行かなくなっても困る。
「(何かと頼りにはなるが、こういうところが油断ならない……)」
胸の中だけで独り言ちる。
結局その夜、俺はゴッドファーザー一杯で店を後にした。
〜Fin〜
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