Cool-B 2013年3月号 『破戒のテンペスト』
「酷い雨だな、全く」
……大粒の雨が窓ガラスを叩き、粘りつく血のようにだらりと流れてゆく。
今日一日は、ずっとこんな天気だった。
外を眺める男の名は瀬戸 旭。日本人だ。
外から戻るなり、濡れて張り付く上着を脱ぎ、雨で冷えた身体をタオルで拭った。
根性のないネコっ毛を逆立て、派手なオレンジに染めたのは、童顔の所為でナメてかかられた、苦い経験からだった。
若く血気盛んな瀬戸にとって、周囲に自分を認めさせ、威圧感を与えることは、何より重要なことだった。
濡れた指で、韓国製の液晶テレビの電源をつける。
動画を再生すると映し出されたのは、香港から来たある男のものだ。
隠し撮りされた劉漸。白いスーツの劉が、車に乗り込むところを遠くから捉えたものだ。
後部座席に消えると車が走り出し、そこで映像は切れていた。
若干、モザイク状の圧縮ノイズがかかったそれは、テレビの映像ではない。
裏ルートから入手した極秘映像だ。
「くそ……しみるな」
瀬戸はできたばかりの脚の傷をアルコールで乱暴に拭き、ガーゼを当てるとサージカルテープで十字に止めた。
僅かに血の混じったアルコールをこぼしたせいで、少し床を汚したが構いやしない。
安いリノリウムの床など、後で拭けばいい。
それにしても空腹だった。カップ麺でもすするか。
電気ポットと電子レンジさえあれば、とりあえずなんとかなる日本の食生活は貧相だが、それでも飢えることのない分、豊かだ。
日本に暮らしていれば、浴びるように電気を使える……
それが、大陸の人間には脅威なのだと、最近まで福建省に居た男に言われた。
立て付けの悪い鉄の扉が開く。
「……また喧嘩か、瀬戸」
「いえ、会長……かすり傷ッスよ、この位」
「……いつまでも喧嘩屋気分じゃ困るぞ」
「今日は本当に事故で俺ら、2トン近い資材の下敷きになるところだったんスよ。でもその分、コレも良かったんで……」
瀬戸は、親指と人差し指で、小さな丸を作って見せた。
そうして笑うと、隠していたはずの愛嬌のある童顔がひょっこりと顔を出す。
「それはいいが、無駄な怪我人を出すなよ」
「すみません、気をつけます」
「……お前もだ。喧嘩しなくても、お前はそそっかしいからな」
「わかってますって。でも、頑張りますよ。あの請負は、来年も継続する契約なんで」
嵐風は態度こそ横柄だが、瀬戸の身の上を案じている。
瀬戸の身体には生傷が絶えない。危険な資材を扱っているのも確かだ。
瀬戸たちは日本人の嫌がる危険な建材の撤去作業や、足場の悪い現場も多く請け負っている。
他より安く大量受注し、明日を生きるに事欠く、生活困窮者に斡旋し、監督する。
彼等は借金を抱えているか、あるいは借金できる信用すらない。
そんな仕事に関わる瀬戸たちを、負け犬扱いする奴もいる。
あまりに危険で待遇の悪い現場に、キレて喧嘩を売ってくる者もいる。
だが、喰らいつけるところには喰らいつき、自分たちは今日までやってきた。
嵐風は液晶の画面に目をやる。
「劉か……ドラゴンヘッドの」
嵐風は悪びれもせず、部屋にひとつしかないソファに腰を降ろした。
「はい。ネットの裏サイトで出回っているものを手に入れたんですが……」
「大陸からの移民たちには英雄扱いだが……今現在のものか」
「わかりません。彼に関しては情報が錯綜していますし、何が真実か、俺にも……」
瀬戸は言葉を濁すが、それを聞き流して、嵐風は何度もループする映像を見ていた。
「気味の悪い話だ。不法滞在者たちがまだ大勢、関東に潜んでいるのも、どうもな」
「でも今度何かあれば、俺ら勇狼会が黙っちゃいませんから」
瀬戸が力強く拳を握るが、嵐風はただ、目を閉じた。
「ふん……頼もしいな、瀬戸。頼むぞ」
「えっ……あれっ!? 会長がそう言ったんじゃないスか。彼らとの共存はない、って」
「そう、簡単に行けばいいがな」
「たとえ簡単じゃなくても、男にはやるべき時があるんじゃないスか」
嵐風は苦く笑い、瀬戸は気まずそうに慌てふためく。
瀬戸の所属する勇狼会は、愚連隊と呼ばれている。
半人前のスジ者だと、半グレと揶揄する者もいる。
無論、瀬戸らはカタギではない。
そして愚連隊のメンバーの多くが中国残留孤児の2世、3世だ。
かつて開拓のため大陸に150万人以上の日本人が渡った。
しかし、やがて戦争が始まり、その多くが大陸に取り残され、中国残留孤児となった。
瀬戸や嵐風の祖父も小さな頃、その残留孤児の一人だった。
その時、必ず迎えに来ると言い残し、先に日本に引き揚げた家族も結局来なかった。
祖父は死ぬ間際まで、家族を信じられなかった。だが幸い、自分たちには仲間がいる。
勇狼会の仲間とツルんでいると、気持ちにも余裕ができた。
「で、死神はみつかったのか」
「えっ……いえ」
瀬戸は短く答え、首を横に振った。
「でも、海外のゲリラで育った日本人の殺し屋……本当にそんなヤツがいるんですかね」
「さあな。だが、狙撃の名手でベレッタも使うらしい。
今まで、政界や財界の大物を、何人も闇に葬ってきた……生立ちはともかく、死神は存在するはずだ」
「でも、今みつけるのは難しいかもしれません……
彼にコンタクトできる人間は限られていますし、龍宮のあたりや、闇市もすっかり変わりましたし」
その殺し屋は龍宮をめぐる混乱を収めた、陰の立て役者だというが……
瀬戸は、その姿を目にしたことはない。
実際、死神の居場所どころか、彼が今も生きているのか、実在するのかすら怪しい。
だが数年前から、勇狼会は死神を捜していた。
瀬戸には、彼に頼みたい仕事があった。
「ところで、瑠夏・ベリーニから、何度か声がかかっていましたよね」
「ああ、いずれ彼らとは一度、話をつける。彼らを敵にまわすのは得策じゃない」
「でも、東京を外国人任せにするなんて、俺は我慢できません。
それに、声をかければこちらがいつでも飛んでくるなんて思われたら不本意です。」
「そう焦るな。今は、まだ様子見だ」
「そう、ですよね……」
嵐風がポケットからタバコを取り出すと、瀬戸が無言でジッポを点け、差し出す。
嵐風はタバコの先に灯る光を見つめ、ゆっくりと煙を吐く。
瀬戸は、自分のこの役目が好きだった。
瀬戸はいつも一言多く、つい相手の地雷を踏むことがある。
それにナメられまいとすぐに声を荒げる。
だが、嵐風に火を差し出すときだけは妙に心が落ち着いた。
だから、嵐風が瀬戸を落ち着かせるときは決まって、タバコを取り出した。
煙を燻らせながら、嵐風は瀬戸に注意する。
「瀬戸。あまり世間を敵にまわすな。愚連隊叩きもようやく静まったんだ」
「あくまで義勇軍スよ、自分らは。それに黙っていたら、こっちがナメられて……」
瀬戸は口を尖らせる。勇狼会は決して、まだ大きいとは言えない組織だ。
「だが、昔とは違うんだ。今は、俺らがいなければメシも喰えない奴らもいる。
警察とモメるようなことだけはするな。全く、お前は焦るといつも一言多くなる」
「ごめ……すみません」
嵐風はただ、煙を吐きながら瀬戸を見る。
家も近く昔馴染みの嵐風とは長い付き合いだ。
昔はもっと砕けた言葉で話していた。
だが、今は上下関係もあり、立場も違う。何より周囲への示しがつかない。
「全く……仕方がないな」
「わ、あいたた……!」
嵐風が瀬戸の被ったタオルを掴んで、濡れた頭をわしわしと乱暴に拭く。
「大袈裟だな。そんなに痛いわけあるか」
「さっき……現場で事故って、照明が落ちてきたんスよ。あえて言わなかったですけど」
「くっ……かわいそうに。将来ハゲちまうな」
「酷くないスか、それ……少しは心配してくださいよ」
それは嵐風なりに親愛表現なのだと、瀬戸にはわかっていた。
嵐風がそんな顔を見せるのは自分だけだということが、瀬戸には誇らしかった。
親にも先生にも反抗するだけ反抗したが、嵐風の頼みなら、外で頭を下げることだってできた。
日本人としては異色の存在である自分のようなはみ出し者を束ねて、今の立場を貰った恩がある。
この場所の居心地を、瀬戸は気にいっていた。
最近は随分、金まわりも良くなった。
嵐風の口端から、ゆるく煙が零れていく。
タバコ税が上がり、喫煙者も随分となりを潜めた現在も、嵐風はタバコをやめなかった。
今では年間1兆円以上の地方税を生み出す貴重な煙を、美味そうに吐いていく。
その時……
「……会長! 大変です……!」
焦った顔で駆け込む部下たち……ただならぬ気配に、嵐風の瞳が闇を睨む。
* * * *
*
事務所の裏口から担ぎ込まれた、仲間の銃殺死体……
こめかみに開いた風穴から、脳漿に混じった赤黒い血がまだうっすらと零れている。
勇狼会の男の一人が、ピンセットで取り出したのは……
(9mmパラベラム弾、か……)
瀬戸の脳裏に、不吉な影が浮かび上がる。
ベレッタを手にした死神。これまで仲間の死にはもう、幾度となく向き合ってきた。
だが今、姿なき殺人者が、自分たちを付け狙っている。
ドラゴンヘッドの残党たちの仕業であれば厄介だ。
彼等の連携は目に見えず、どこで繋がっているかもわからない。
党やその家族、関係者の数は未知数だ。
今、ドラゴンヘッドの残党たちのリーダーについては諸説が入り乱れている。
劉は死んだとか、刑務所にいるとか、祖国に戻ったとか、以前の幹部が跡を継いだとか、ありとあらゆる噂が流れている。
……だが、何が真実で、何がデマなのかはわからない。
瀬戸には、どれも嘘のように思えた。
ただ、こうして身内が突然倒れていくのを、黙って見ていることしかできないのが一番辛かった。
これが喧嘩絡みなら、いっそわかりやすいのだが……
「くそ……ッ………一体、誰が……」
無駄のない殺し方。
誰が殺ったかわかればすぐにでも仇を取るのに……
瀬戸は悔しさに唇を噛みしめる。
嵐風は、無言でタバコをアルミの灰皿に押しつけ、火を消した。
苛立ちや焦りも顔には出さないが、嵐風は静かに重く、怒りを押し殺している。
「キレるなよ、瀬戸」
「わかってます……でも……俺は……っ!」
瀬戸は首を振る。
今、何をすべきか。仲間の復讐……?
だが、相手の顔が見えない。劉なきドラゴンヘッドは、まるで姿なき怪物のようだ。
目的は脅しか、隠蔽か。
それすらわからぬまま。ただ、目に見えぬ病理が、確実に自分達に迫っている……
「情報屋には当たっているんですが……」
「張という男は……?」
「いえ、それがまだ……」
湾岸の情報屋・張が、死神と接触していたと聞いてから、ずっと闇市周辺で探りを入れていた。
だが、誰も彼を知らないという。金を積んでも、脅しても何もわかりはしない。本当に知らないのか、あるいは死神への畏れか……
瀬戸の手が震える。
(まさかドラゴンヘッドの残党たちが、死神を雇って、俺たちを……)
「……どうした、瀬戸」
「会長……
」
死神は、自分たちの敵か味方か……それは、まだわからない。
瀬戸は、車の鍵をとって立ち上がる。
「自分が、必ず仇をとります……! 行かせてください」
「俺も行く。裏口から出られるか」
「はい……!」
足早に、瀬戸と嵐風は事務所を出ていく。
切れかかった蛍光灯が、またたきながら二人を照らす。雨脚はますます強まり、海辺の街を煙らせてゆく……
(to be continued in story “code:tycoon”) |