Cool-B 2013年5月号 『微醺のブラウンエール』
「ああ……俺はなんて事を…………もう、おしまいだ……」
気品と堅実さを併せ持った英国スタイルのショットバー。
その片隅のスタンドで、何度目か分からないため息が零れた。
俺の名は霧生礼司。東京湾一帯をシマに持つシチリア系マフィア、キングシーザーの幹部だ。
敬愛するボス、瑠夏・ベリーニの右腕として側に仕え、彼を護衛し支えることが俺の誇りだった。
しかし……事態は、今朝になって急変した。
“霧生、今日一日キミには護衛を外れて、石松の仕事を担当してもらう”
“えっ……?”
“ちょうどキミに監査に入ってもらいたい地区があるんだ。
今後、ボクらのシマを拡げるにあたって重要な拠点になるだろう……引き受けてくれるね?”
“ああ、今日の会合にはパオロと石松について来てもらうから、心配はいらないよ”
“……ですが、ボス。急にそんな変更をするなんて……”
“昨日の夜、うっかりキミに伝え忘れちゃってね。……まあ、よろしく頼むよ”
真意の測り知れない笑顔に、俺は了承するしかなかった。
(絶対におかしい……ボスが、俺を急遽護衛から外すなんて……)
……ジャズボーカルの洋楽が流れ、店内は落ち着いた雰囲気を醸し出している。
しかし、俺の胸中は、落ち着くどころか不安が募る一方だった。
(やはり、昨晩の俺の態度に腹を立てているに違いない。……ああ、もうおしまいだ……)
いつの間にか空になっているビールジョッキ。
今ので四杯目だったか、五杯目か……。
店にはエールにラガー、ピルスナーまで種類豊富な外国産ビール。
つまみのフィッシュ&チップスとも相性は抜群だ。
しかし……
(……ダメだ……どうにも酔えん。せっかくボスが薦めてくださった店だというのに……)
『仕事上がりに寄ってみると良いよ!』
なんて言われたから来てみたものの、いくら飲んでも気分が晴れない。
しかし、不安を誤魔化すには飲まずにはいられない。
褒められた飲み方ではないと分かっていたが、今は自分一人だけだ。
もう少しだけならと、俺は次のジョッキに手をつけた。
俺がエールの一口目を呷った時、来店を告げるベルが鳴った。
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
「ああ…………そこの酔っ払いと同じものを」
(酔っ払いとは俺のことか……? 失礼なヤツだな! 俺は酔ってなど――)
俺は入ってきた客へ視線を移したが……
「っ!!? ゴホゴホッ……! じぇ、JJ……!?」
その姿を見た途端、盛大にむせてしまった。
「酷い飲みっぷりだな、霧生。ヤケ酒か?」
「ゴホッ……そ、そんなんじゃない……! 人を酔っ払い扱いするな!」
……JJはかつてボスが組織に引き入れた殺し屋だ。
今はキングシーザーとは付かず離れずの状態だが、専属の殺し屋として優秀な働きを見せている。
そして、あまり公言できた事ではないが、俺とJJは……
……それなりに深い付き合いにある。
「JJ……どうしてここに? あと数日は龍宮界隈の情報を集めているはずじゃ……」
「ああ、龍宮内の人身売買ルートを調べていたんだが……
取引支援者の一人が、この近くに事務所を構えていると聞いてな。
今日は足を広げて調べていたんだ。……まあ、そっちは何とか尻尾を掴めそうだ」
JJはそこで、出てきたエールを呷った。
「……っ…………結構苦いな、これ」
「この苦味が良いんだ…………って、話はまだ終わっていないぞ、JJ!」
「はいはい、どうしてこの店が分かったのか、だろう? 瑠夏から電話で教わったんだ」
「ボスから……?」
「オススメの店があるから仕事上がりに寄ると良い……きっと、霧生もいるはずだ、とな」
俺の知らない所で、そんなやり取りがあったとは……妙に寂しさを感じる。
(……仲間外れにされた子どもじゃあるまいし、何を感傷的になっているんだ、俺は!)
俺は喉の奥にエールを流し込み、その苦味で胸の内の苦い感情を誤魔化した。
「ずいぶん落ち込んでいるようだが、今度は何をやらかしたんだ?」
「…………ボスを怒らせてしまった」
JJは愛想ゼロで意地の悪い男だが、俺の話にはしっかり耳を傾けてくれる。
彼には今まで、何度も愚痴を聞いてもらってきた。その安心感に甘え、俺はついつい呟いていた。
「また一人で、危険な橋を渡ろうとしたのか?」
「違う! ……実は昨日の晩、ボスの部屋に呼ばれたんだ」
「………………それで?」
気のせいだろうか、JJの促しに若干の間があったような……
「それで、その……最近、一人で寂しいんじゃないか、その寂しさを和らげてやりたいと…………ベッドに、誘われた」
「……………………」
「も、もちろん俺は断ったぞ!」
JJに誤解されてはたまらない。
俺は、すぐに話を続けた。
「ごく自然に断った……! この後、どうしても外せない用事がある事を思い出したと言ってな……!!」
「……で、瑠夏はどうしたんだ?」
「冗談だから気にするなとあの時は笑っていたが……今朝になって、急に俺を護衛から外した。
間違いない、絶対ボスは怒っている……俺が誘いを拒んだことを……!」
一度口にすると、不安が次々と溢れてくる。
「ボスは終始爽やかな笑顔だったが……
実は内心ものすごく腹を立てて、俺の顔など金輪際見たくないと思っているんじゃ……」
「っ……はは、それは考えすぎだろう」
頭を抱える俺を、JJは無情にも笑って一蹴した。
心温かな慰めを期待していたわけではないが、まさか笑われるとは思わず、俺は少なからずショックを受けた。
「よく思い返してみろ、この店で俺たちが会えたのは――」
「お前に打ち明けた俺が馬鹿だった……!」
思わず、俺はJJの言葉を遮っていた。
「ボスに嫌われるなど、俺にとっては死活問題だ! それを笑うなんて!!」
「ああ……笑ったのは悪かった。だがな、きりゅ――」
「俺はボスに命を預けているが、JJを裏切ることもできない……
俺がどんな気持ちでボスに断りを入れたか、知りもしないで!」
「おい……」
「この先、ボスに見放されたら俺はどうしたら――」
「落ち着け、霧生」
「っ……!?」
俺はJJに手を掴まれ、そのまま引き寄せられた。
「あ…………」
目の前にはJJの顔。
互いの前髪が触れ合うほどの近さだ。
「J、J…………」
「心配するな、そうなったら俺がお前を全力で庇ってやる」
至近距離で囁かれる言葉が、鼓膜を揺らす。
「他のヤツらがどうであろうと、俺はお前を見放さない。最後までお前の味方でいてやる」
「……………………」
「だから、安心しろ……お前は一人じゃない」
顔が熱いのは、摂取したアルコールのせいだ。そのはずだ。
今まで感じなかった酔いが、一気に回ってきたのだろうか。
心地よい陶酔が広がり、強張っていた身体の緊張が解けていく……。
この男は普段言葉足らずなくせに、何故、こういう時に限って俺の欲しがっていた言葉をさらりと言ってのけるのだろう。
嬉しい半面、それが悔しくもあった。
「……どうだ? 少しは落ち着いたか?」
「……あ、ああ……まあ、な」
この距離で覗き込まれると、居心地が悪い。
しかし、自分の心の波が静まったのも事実なわけで…………俺は、ぎこちなく頷いた。
「不安で当たり散らすのは構わないが、少しは俺の話も聞け」
「…………ああ、すまない」
静かなJJの言葉につられ、俺は小さくそう答えていた。
不本意だが、まるで飼いならされた犬にでもなったような気分だ。
「いいか? 瑠夏は最後、俺にこう言っていた」
「……“悔しいが、霧生の寂しさを埋められるのはJJだけのようだ。優しく労ってやってくれ”……とな」
「ボスが、そんな事を……?」
「ああ、俺たちが会えるよう気遣ってくれた瑠夏が、お前を嫌っているわけがないだろう」
「そうか……そう、だよな……」
言い聞かせるようなJJの言葉は、俺の胸にすんなり溶け込んでいく。
胸の中に、安堵が広がったが……
「俺はボスの心遣いにも気付かず、感謝どころか勝手に落ち込んで……はあ…………」
ボスの心を疑うなんて、幹部として失格だ……思わずため息を吐いてしまった。
「やれやれ……いつも瑠夏瑠夏うるさい地獄の猟犬が、形無しだな」
「……う、うるさい! 俺だってたまには落ち込みたい時もある!」
ついつい、やけっぱちの言葉が口から飛び出す。
俺は飲みかけのエールを引っ掴んだ。
「ええい……! こういう時は、禊に限る! 飲んで飲んで、全て洗い流すんだ!」
ついでに、JJにもジョッキを押し付ける。
「お前も飲め、JJ! 俺だけが飲んでいては割に合わない」
「それは構わないが……飲み過ぎは良くないぞ、霧生。ほどほどにしておけ」
呆れた口調ながらも、JJはジョッキを受け取ってくれた。
「ああ、分かっている。酔い潰れた時は、JJの家に厄介になるから心配するな」
「家主の承諾もなしに、何が心配するな、だ…………図々しいヤツだな」
「お前が断っても、こちらには合鍵がある。諦めるんだな」
「やれやれ……霧生、この後、本当に俺の家に乗り込むつもりなら……」
そこまで言って、JJは声を落とした。
「夜明けまで俺に付き合う覚悟は、もちろん出来ているんだろうな……?」
一瞬言葉に詰まったが、俺もほど良く酔いが回っていたらしい。
「……と、当然だ! それぐらいとっくに心得ている……!」
我ながら気の大きな返事を返したものだ。
だが、JJは楽しげに微笑んだ。
「そうか……それなら、俺も心置きなく酒が楽しめる」
JJが隣にいると、妙に安心して遠慮を忘れてしまう。
それは、普段周囲に見せない俺自身の甘えなのかもしれない。
そして、その甘えを受け止めてくれるから、俺はこんなにもJJの隣に居心地の良さを覚えるのだろう……。
この男の生き方は、俺の生き方とは違う。
目的は同じでも、JJは独りで、俺は組織の中で戦う道を選んだ。
そうやって俺たちは、一定の距離を保ちながら生きている。
今後、俺たちの距離が変わるのかは分からない。
しかし、たとえ変化したとしても、俺もJJも、己の生き方を変える事はないだろう。
ぼんやりそんな事を考えていると、JJが口を開いた。
「……せっかくだから、乾杯でもするか? キングシーザーでは毎日恒例だろう?」
「…………ああ、そうだな。何に乾杯する?」
俺の問いに、JJは琥珀色のエールを見つめてしばらく考えこんでいたが……
「俺もお前も、いつ敵の銃弾で倒れるか分からない。
再会できた事への感謝と……次に再び、こうして酒を酌み交わせる事を祈って……なんてどうだ?」
俺たちは生き方が違う。
しかし違うからこそ、互いの存在が大切な居場所であり、共に過ごせる瞬間に愛しさを覚える。
言葉にはしないが、俺もJJもそれを知っている。
俺たちはつかの間の逢瀬に酔い、次の夜明けには、また自分の道へと踏み出すのだ。
「まあ、乾杯には悪くない。……JJにしては、ずいぶん優等生な気もするが」
「一言余計だ。…………それじゃ、乾杯」
「ああ、乾杯」
ぶつかったジョッキが涼やかな音を立て、中の酒が波間に跳ねる。
喉へと流し込んだエールは、この店のどのビールよりも苦くて、そして美味かった。
Fin
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